安心するな 心配するな
[8月/Aug.]
「安心するな、心配するな」とは、私がまだ実家にいた頃、しばしば父の口から聞いた言葉である。
戦時下少年時代を過ごした父が両親から聞いた言葉かと思い、先日聞いてみた。どうやらそれは違ったようである。
昨今の新型コロナウイルス感染症拡大蔓延状況において、この言葉が記憶の彼方から浮上した。
不用意に安心してはいられないものの、闇雲に心配ばかりもしていられない。
今年の特別に暑い、アトリエ室温は37℃を超す高温多湿の中で作業をしていて大島のアートアイランズメイン会場であった旧波浮小学校校内を思い出していた。
日常の中でも普段めったにすることのない作業、例えば、収穫ケースに4段も積み上げられたジャガイモの点検をするようなときにさえ、大島での共同生活、日直や食事の準備などを思い出した。
8月終盤から9月中旬ある時期の大島・新島でのアートアイランズ経験は、それほど深く夏の経験として染み込んでいる。携帯には時折、同日の過去日に大島や新島で撮影した画像が表示される。
今年は、自宅にありながら、疑似オオシマを体現し、"今"と"ここ"を綴ってみたいと思う。
[9月/Sep.]
アトリエでの作業中、いろいろなことが起こる。
ネットを使い始めたのは、ある屋外の展示場所で風の抵抗を最小限とするためであった。それは単なる基底材としての用途であった。
ところがこの素材の美しさにふと気がついた。光が透けて通るのである。
これはシンクで偶然撮った写真であり、写真中央の光は自然光である。
[10月/Oct.]
今年のアートアイランズTOKYOは、作品のエスキース展であり、作品構想を練っている途中経過を見せるような内容を期待されている。ところが、それがなかなか難しい。
最終的に「作品」となり得なくてもよいということである。
なにやらこのもわもわしたものがどうなるともわからないが、状況の記録、構想を練っている途中段階として写真に撮ってみた。写真素材として使えるかもしれないという算段である。
撮った静止画をもとに動画にしてみた。
『泡沫の夢』
[11月/Nov.]
個人プレゼンがなんとか終了した。プレゼン冒頭では「少し先の未来」という動画を見ていただき、「環境」や「今」について考えた話をした。去年(2019年)の台風で大きな被害を受けた旧波浮小学校の未来を思いながら、とある廃校の校舎内を歩いて日が昇り明るくなっていくまでを1時間おきに撮影した動画を編集したものである。
動画タイトルの「少し先の未来」とは、不安の中、手探りで歩を進めることのできるところの延長線上に未来があるという思いからつけた。「今」というものの捉え方は、住む世界や置かれた環境によって異なるようであるが、「少し先の未来」とは、「「今」を少し押し広げたあたり」と言えよう。
現代人の1分1秒、とても目まぐるしく忙しい「今」をできるだけ押し広げて、少し「ゆったりとした「今」」を生きたい。「作品」とはそういうものなのではないか。「作品」の定義はさまざまあろうが、「今」を押し広げ、特別な時間を作り出す力のあるもの、またはそういった力を求められるものなのではないだろうか。
「今」という時をひろげられるだろうか。
『今という時間』
[12月/Dec.11]
以前、ビデオ作品は鑑賞者を長く作品の前に留まらせることから、ビデオ作品を羨ましく感じたことがあった。そんなことを考えたこと自体を忘れていたが、今回自分でビデオの編集をしてみて、1秒間に数十コマ映し出す流れの中の1コマを取り出すと、1コマはまるで短い時間であるこということに気がついた。
上田薫は、カメラの捉えた数百分の一秒程度の出来事を絵画にした。スプーンからこぼれ落ちるジャムやゼリー、割った殻からまさに落下する瞬間の生卵が描かれている。その瞬間そのままにそこに留まらないことを私たちは知っているから、落ちていく次の時間を鑑賞者は感じる。このシリーズは、動きが始まった直後という点に特徴があろう。
1878年にエドワード・マイブリッジが疾走する馬の連続写真撮影を成功させて以来、肉眼では捉えられない動きをカメラで捉えることが可能になった。動きのあるものの一瞬を切り取ることは時間の表現には違いないが、細かく切り取った一瞬は、数量に置き換えられない豊かな時間とは真逆に位置するかもしれない。密度の濃い豊かな時間というものは、何時間、あるいは何分といった数量で計ることができない。
個人プレゼンで使った動画「少し先の未来」に話を戻そう。
これは、私の参加した芸術祭の閉幕の翌早朝に撮影したものである。この校舎に私は泊まり込んでいた。仮眠部屋のある棟のトイレはすでに使用できず、3階から2階へ降りて反対の棟へ行く。2年前の芸術祭の時に使用できた2階トイレは「使用できます」のプレートが残されたままだが実際には使用できず、さらに1階まで降りる。17年前に廃校となった校舎の水回りは劣化が進んでいた。
点けたままにしてある職員室前の灯りをたよりに、真っ暗な廊下を歩く。何度も歩くと怖くもなくなり、愛着すら湧いてくる。動画のタイトル部分の映像は、仮眠部屋ベット間の衝立であり、起き上がったベットの上で撮影したものである。そこで数日間お世話になった。時間というのは心に沁み込むものだなぁと思う。
ところで、「私たちは日がのぼり明るくなるのを知っている」と動画の最初に書き込んだが、これは「朝」と認識できていることが前提にある。認知症が進行してきた同居の義母は、昨日は相当早く目覚めてしまったのか、午前7時過ぎ、少し曇って薄暗い日ではあったが外の様子を指し示しても「朝」と理解できず、楽しみな外出日のはずであったが布団へ戻って寝てしまった。
5:20AM
6:22AM
7:33AM
廃校の校内が明るんでいく様子を撮影編集した動画。
『少し先の未来』
[12月/Dec.23]
このところ、「どうしたら「今」を引き伸ばせるか?」、「ゆったりした今を生きることができるか?」を意識しつつ生活している。
何か変わったことがあるか?、については意識の問題で説明のしようもないが、なるべくあくせくしないようにと心がけている。そのようなふうであるがどうやら仕事はかえって捗るようであり、意外な心持ちである。数十年触っていなかったピアノの前に毎日少しずつ座って、やがては春が来るという思いから「You Must Believe in Sprig」を練習してみている。
昨日、日時指定で三鷹のぎゃらりー由芽宛に「作品」を送付した。指定日がクリスマスイブであったためか、残念ながら到着が遅れてしまった。ネットを着色する時に筆が引っかかって飛んだ飛沫の跡などによる「痕跡」。こういうものが面白くなることが少し怖いような気もするが、気にしないことにする。「アートアイランズTOKYO」が大島などで開催される時にやってみたいことが見えてきたような気がした。
[1月/Jan.]
1/25スタートのSPC会場には下記2点を出品した。
[2月/Feb.]
「アートアイランズTOKYO2020」は、昨日1/31をもって9/1より5か月という長きに渡る会期を閉幕した。「安心するな、心配するな」の心持ちでスタートした自身の思索は深まっただろうか。アップした動画や写真から「ネット」の比重が高くなっていることがうかがえる。最後はウィルスを連想させなくもない飛沫などによる「痕跡」。自分の制作行為の痕跡であり、今という時間の痕跡でもある。
見えないもの、見えないことによる不安。見えれば、解明されれば、人々は安心できる。世界中の人々の不安がなかなか収まらない。しかし、春は必ず巡ってくるのだから。
(とりあえず)《完》