「いのちを見つめる/消滅と再生」消滅と向き合い、再生に向かう力

瀬島久美子 (インディペンデント・キュレーター)

 今年で3回目となる「いのちを見つめる」展は、消滅と再生というサブタイトルが設定され、アート・ネットワーク・グループ”element”の金田菜摘子、高橋理加、島村美紀、高草木裕子の作品が出品された。
 今年は、311以降、日本に関わる誰もがいのちを見つめざるを得ない状況となり、この展覧会の意味がますます浮かび上がってきた年でもあった。
 そんな中での本展は、作家にとって、今まで以上に重いテーマになったことと思う。

 入り口を入ると島村美紀の写真。壊れたビルの写真から息づかいが聞こえてくる。一歩一歩、一枚一枚、歩みを進めるごとに、おじいさんの古時計や、樹齢数百年の大木のような、ゆっくりゆっくりと喘ぐような大きな息づかいが聞こえる。これは東日本大震災で破壊されたビルに違いないと早合点した私は、キャプションを読んで愕然とした。なんとこのビルは岩手県にある廃工場を昨年撮影したものであり、震災で損傷したものの健在とのこと。
 聞こえてきた息づかいは、廃工場の生命力を見事に捉えた写真の力にあったのかと改めてキャプションを確認すると、モノクロネガフィルム、インクジェットプリントとある。昨年までの島村作品はすべて手作業で、デジタルやインクジェットとは無縁の手業の感じられる作品であった。この突然の変化を不思議に思い、後日、本人にたずねてみると「震災後、現像の水洗処理による環境汚染に抵抗を感じ、不本意ではあるがデジタルに踏み切って試行錯誤した」とのこと。
 私のように、後片付けが面倒なのでフィルムよりフォトショップ、カラス口よりイラストレーターという人間とは違って、彼女は、かなりの試行錯誤を積み重ね、新たに独自の方法論を開拓したのではないだろうか。
 デジタルという、いわばクールなメディアゆえに息づかいが聞こえるのか、作者の試行錯誤がデジタルを超えて手業の世界を生み出したのか。今更ながらメディアのクール vs ホットについて考えさせられたが、 廃工場のコンクリートの肌からは建築物が生きてきた年月が感じられ、手作業の作品と同様に、じっくりと時間と付き合うという作家の姿勢が貫かれている。もしかして聞こえてきた息づかいは、作業する時の島村美紀本人のものかもしれない。

 金田菜摘子の「cluster-dormancy」(群の休眠)では、3月11日から数日間、思考停止状態に陥った時のことを思い出さずにはいられなかった。
 私は現実を把握できず、映像を食い入るように眺め、友人の生死確認のためにひたすら電話をかけ続けることしかできなかったし、東北出身者の多い私の住む町は重苦しい空気に包まれ、住人は無口になり、ひっそりとして、笑うことすらはばかられた。
 「cluster-dormancy」は、こうした集団の停止状態を思わせる。個々には明るい色彩の作品が、息を潜め、群れて固まったまま動こうとしない。金田菜摘子は、少しほころびの出てきた作品を休眠させ、新たに手を加えることで再生させようとしているとか。東北が復旧ではなく復興を目指しているように、パワーを放つ作品として復活する時を待ちたい。
 「mold」は、まさに再生を目指した作品群である。シミをつけてしまって着られなくなった洋服やお気に入りだったのに汚れてしまったポーチ、アクセサリー等々が並べられ、そこからモゾモゾと生き物が生えてきている。
 サブタイトルに「私から発生するもの」とあり、「思い入れがあるのに使えなくなった悔しさをバネに作品化したリベンジシリーズでもある」と作者が語るように、生き物は細菌と戦う白血球のようでもあり、IPS細胞のようでもある。
 そして、昨年に続いて「はしるいきもの」が、元気よくギャラリーのそこここに顔を覗かせ、老いや死をテーマにした作品群から抜け出した精霊か魂のようである。もし、この小さな精が他の作品に宿ると、果たして作品はどうなるのか? 作者と話をするなかでコラボレーションを提案してみた。
 コラボレーションとひと口に言っても、実際には一筋縄ではいかない難しい作業であることは私も経験しているが、さいたま美術展<創発>プロジェクトでは絵画とパフォーマンスのようなコラボレーションが企画されたこともあり、毎年作家たちと共にいのちを見つめる鑑賞者として、出品作家同士のコラボレーションも今後の楽しみとしたい。

 高橋理加の作品は牛乳パックを素材として用いているが、牛乳パックを溶かしてから石膏を扱うような技術で成形するため、質感も変わってしまう。巷によくある牛乳パックのリユースではなく、手間隙をかけたリサイクルである。
 作者自身が、抽象的表現から具象へと表現を意識的に転換したと語るように、「臨」は、友人の死に直面した時の体験が具象化されている。
 病床の友は、幾本ものチューブに繋がれて、最後を迎えようとしている。最後の時は友をチューブから解放してあげたいという思い、つなぎ止めておきたいのは命なのか心なのか、生きていることの意味とは?そして終末の在り方を考えても答えは見いだせない。
 生老病死にまつわる経験は、誰もが胸の奥にたたみ込み、何かの折にふと思い出してはため息をつく。答えのない問題を提示したこの作品は、牛乳パックやチューブといった素材や、彫刻やインスタレーションという形式を飛び越えて鑑賞者の心に押し寄せてくる。
 作品は病床の友とそれを取り巻く7人の子供たちによって構成されているが、子供は作者自身のようであり、天使のようでもあり、妖精のようでもあり、使徒のようでもある。その子供たちは、親しい人を見送ったことのある人なら誰でもが経験したであろう「祈り」の表情をしている。泣いているわけでもなく、叫ぶのでもなく、悲しみの表情すら見せず、ひたすら祈る姿は宗教画を想起させる。この祈りの神色によって、本作は形而上へと引き上げられているといっても過言ではないだろう。

Hiroko Takakusaki, 2011, Mixed media,
「泥より」
(部分)

Hiroko Takakusaki, 2011, Oil on canvas,
「変容」
(部分)

Hiroko Takakusaki, 2011, Pencil on paper, 「私の中の小宇宙」
(部分)

 今年6月11日、気仙沼にボランティアに出向き、瓦礫撤去を手伝ってきたという高草木裕子の作品は、被災現場を体験した時の動揺が形になっているのかもしれない。想像を絶する、想定外、予想だにしなかった…。どんな言葉をもってしても言い表すことのできない現実。その現実に向き合い、瓦礫を撤去するという、ある意味では空しささえ感じる作業をこなした後で「泥より」は制作されたという。
 ついこの間までは家の住人が生活していた痕跡の残る壁土、柱、ガラス、そして本や生活用品が瓦礫となって堆積している。「表面の瓦礫を運んでも運んでも土からまだ出てくる」と作者が語っているように、そこにそれだけの人と生活と歴史が埋まっている。語る言葉すらない体験を形にすることは困難を極めたと推察する。
 「泥より」には、こうした作者の体験がメディアに変換され、重ねられている。墨絵、それを覆うように青いジョーゼット、そこに取り付けられたクレヨン、油彩他による平面。作品の奥行きが、運んでも運んでも終わらなかった作業を想像させ、且つまだまだ続きがあるような気がする作品である。
 由来から考えて、観る作品というよりは、変換されたメディアの感触によって追体験する作品ではないかと思えるのだが、設備との兼ね合いで、インスタレーションとしての展示を諦めざるを得なかったということが心残りである。
 建築家原広司は境界論において「空間には二つの性格があると言われる。ひとつは容器性でひとつはフロアである。容器性は領域の範囲を明確に規定するが、フロアはあいまいな領域の場であって、そこに置かれるものによってある雰囲気があらわれる」と言っている。
 「泥より」が数年後、「もの」と「こと」の記憶として、鑑賞者が体感できるような空間構成で展示される機会があれば、作品が作り出す場の空気をぜひ共有してみたい。

 注腸検査のX線を描いた「私の中の小宇宙」は、作者が、壁面に直角に取り付けて展示したかったという作品であるが、どうして腸が小宇宙なのだろうか…?あれこれ考えを廻らせるうちに、法則に従って渦巻くように配置されている腸は、曼荼羅のように宇宙を抽象しているのかもしれないと思い至った。だが、どうやらこれは私の妄想だったようで、暗くて深い宇宙と体内が重なり、壁面に直角に取り付けて、覗き込むようにして見てもらいたいという意図があったようだ。

 そして「変容」は、1992年の油彩の変容を試みた作品である。
 展示するにあたっては、赤を多用した画面が血の海のように危険な感じがするのではないかという躊躇もあったようだ。インドからシルクロードを通って日本に繋がるアジアを感じさせる赤は、イエローオーカーのにぶい光を放つ線を伴って、ゆっくりと迫ってくる。
 あるフランス人は東北の津波を、北斎の神奈川沖浪裏が牙を剥いたと表現しているが、北斎は、精密機器のような視線によってコッホ曲線を見事に絵画化し、モネは反射、拡散する光を幾層ものレイヤーにして描き重ね、「黄昏、ヴェネツィア」のように赤い海を描いた。
 高草木裕子の「変容」は、形態認識でもなく、光のレイヤーでもなく、面と面のぶつかり合いによって線を生み出しながら、ゆらゆらと揺れる水面のような揺れを創出している。

 今年もこれらの展示に加えて、講演、ワークショップ、パフォーマンスなど、来場者と共にいのちを見つめる機会が用意された。
 artificialとは人工物のことであり、そのひとつであるアートが、人の作った組織やシステムに対して批判的立場を取り、記号の組み替えに挑むことは可能な行為である。しかし、人の力の及ばない死や消滅、批判することのできない老いや病の本質を見据えることは容易ではない。この難しいテーマに勇壮果敢に挑み続け、且つ、毎年、会場の手配から企画、制作までを少人数で進めるアート・ネットワーク・グループ ”element”の努力と情熱に敬意を払いたい。

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