果実へ

植物が水を吸い上げ
日の光を浴び
実を実らすように、
長い年月をかけて
幾多の経験を積み
人は心を豊かにしていく。
豊かに甘く美しく実った果実も
いつか腐ってしまうのか、
次の世代の誕生へ向けて。

人は生涯をかけて
それぞれの果実を実らせる。
その長い道程に
おしまいはない。

2001年1月個展(-果実へ-)にむけて


Hiroko Takakusaki, 2000, Oil on canvas, 175x116cm, "A Core"


 私はなぜここにあるのか、私たちはなぜそれをするのか、人々はどうしたら幸福を実感できるのか・・・。さまざまな問いを制作途中の絵と対峙しながら考えます。つまり、絵を描くことは私が私自身と対話するための手段ともいえます。私自身と社会とのコミュニケーションの模索をしているということでもあります。私が何であるかを考え、作品に向かい、奮闘し、くたびれ果てて、その結果、私の中のなにかがそこに出てくればよいなと思います。
 コミュニケーションの重要性はいろいろな場面で指摘されています。これは人間が社会的動物であり、個人が複数のさまざまな性格を持つ社会や集団に所属しているためだと考えられます。たとえどんなに一人孤独に生きようと願っても現代社会では全くといっていいほど不可能ですから、意志伝達の手段は必須です。挨拶すら出来ない子供や大人が増えているということで驚きますが、自分の考えを確実に相手に伝える自信のある人は一体どのくらいいるでしょう。多くの人にとってそれが難しいが為に「言葉」によるコミュニケーションに長けている人が社会を制しているようです。
 ところで、絵画(美術)は「視覚」によるコミュニケーションであることに間違いはないでしょう。作品を観て「何を」感じるか。それが基本だと思っています。それにしても、外国のアーティストは実に多弁です。朗々と作品説明などをします。日本のアーティストもメディアに登場するような人はそうした方が多いように思います。もしかしたら、“観て”“感じた事”はやはり言葉で表現できないと「伝わらない」のかもしれません。「言葉」で聞いただけでは実感できないのもまた事実なのですが。

 昨年暮れ、「HOT HEAD WORKS 2000」のシンポジウムを聞いてきました。“自分自身の内なる声に耳を傾ける事”という話が出ていました。これは私が絵と向かい合うときに努めていることです。あるいは“絵の声を聴いている”ように感じることもあります。舞踏家や演劇家を交えてのシンポジウムでしたので“身体表現”の話が出ました。美術家で「身体表現」というと2年前くらいまでのさとう陽子さんを思い出すのですが、私の等身大の作品も「身体表現」に近い部分で制作しています。こうした制作方法は私をコンピュータ・グラフィックスの制作に向かわせない理由にもなっています。
 私の場合、描く事は肉体の疲労をある程度伴う行為です。そして、私の描いてるものは私の「意志」や「希望」のかたまりに違いないと実感しています。

2001.01


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高草木裕子展 -果実へ- 埼玉県立近代美術館 一般展示室3
2001/1/23~1/28
   
Hiroko Takakusaki, 2000, Oil on canvas, 175x116cm, "Moisture", "Moisture", "A Green Berry", "A Green Core"

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