「雑感」

(第59回日本アンデパンダン展出展によせて)
高草木 裕子

Hiroko Takakusaki, 2006, 綿布、不織布、中国紙、障子紙、キャンバスにアクリル、他
「目は心の窓 -瞳をあけて-」 (部分)

 私はインスタントコーヒーが好きで毎日ガブ飲みしている。珈琲は嗜好のために森林を伐採して栽培された贅沢品であると頭の隅ではわかっていてうしろめたさも感じてはいるのだがやめられない。アトリエでコーヒーを飲んでいてコーヒーで字を書いてみることを思いつく。乾くとほとんど解読不能となるであろう。しかし、これも「伝える」「伝わらない」「何を」「だれに」「伝えたいのか」といった近頃気にかかっていることの表現へとつながる試みになるかもしれない。紙と筆は昨年杭州で購入したものである。

 今日は2006年2月19日。昨日の新聞と2月14日の新聞をひっくり返した。あたり前かもしれないがトリノオリンピックの記事であふれ返っていた。日本ではメダルをなかなかとれないと残念がられているが、世界にはオリンピックにもましてや冬期オリンピックには出場すらむずかしい国がたくさんある。生きることに精一杯であれば、またトレーニングに必要な施設がなければ世界のトップクラスの選手が育つはずもないのだ。スポーツとアートの世界を比較してみるつもりはあまりないのだが、もしかしたらこの点においてはアートの方がいくらか救われる一面をもっているかもしれないとふと思った。アートの方式は実に多様化し、旧来の絵画や彫刻のように素材に手を加えていかに人々の絶賛を浴びるか否か、でないアートも存在し、敷設が大掛かりとなるものの一方で展示物がいっさい存在しないような作品がヴェネチア・ビエンナーレや先の横浜トリエンナーレでも取り上げられたりしている。(ティノ・セガール)

 モノとしての作品はすでになくまさに概念あるいは作者の主張しか存在しない、というわけだ。その作者は物質に依存するこれまでのアートというものを否定している。私は一人の表現者としてアートの意義・力について思いをめぐらせる。なかなか難しい課題であるのでこれからもずっと取り組んでいかなければならないと思っている。アート作品は作品を鑑賞するのみでなく本人の書いたテキストや他人の書いた評論を読まなければまるでわからない場合がある。さきの作品としてのモノを展示しない例ばかりでなく、作品がそこに置かれてあったとしても見過ごしてしまうようなつまり気付かれないようなものもある。いずれにしても今自分の生きているこの世界に何らかの問題意識を持ち、それを発していこうとするさまざまなカタチが現代美術なのだといえる。

 私は日本に生まれ日本に育った。日本人のアイデンティティを持ち、誇らしいと思える時とそうでない時がある。良い面よりも悪い面のほうが数多くあげやすく、また気にもなるものであるというのはどんな場合にも共通している。日本人の性質で私が気になる点を一つだけ上げるとすれば、自身による価値判断をするのが不得手で決断も他から与えられたものをほとんど無批判に受け入れてしまう傾向が強い点である。この時の「他」とは単に自分以外の誰かでなく、「上の者」である場合がほとんどである。下の者は上の者に判断をゆだねることで社会が成り立っているような部分がある。ひとつの社会の構造や本質、人々の深い部分の意識などは5、60年で変わるものではない。私たちは60数年前どのようなおろかしいことをしてしまったかについてよくよく検証し、事実について知らなければいけない。どのようにして戦争への道を歩んだのか、そしてどのような戦争だったのか、そしてどのような戦後だったのか。戦後はまだ終っていないとする主張がある。戦争は私たちから何を奪ったのか。私たちは戦争を放棄し平和国家への道を歩んでいたのではなかったか。私たちは未来の世代のために戦争のできる国への道すじを作ってはいけない。地球環境の悪化をくいとめましょう、個人を尊重し集団や組織に押しつぶされない自己の確立をめざしましょう、見ザル言わザル聞かザルとならないようしっかりと見て聞いて発言し物事の本質を感じ取れるようになりましょう。オリンピックはすばらしい。オリンピックもよいのだがオリンピック選手でない私達にも日々の課題が山積している。

 ところで今の日本の社会で過去の教訓、歴史はいかされているだろうか?学校ではどうも近・現代をあまり教えないというかとりあげないというか、縄文から始まる歴史の授業は時間切れになってしまうことが多いのではないかと思うがいかがなものであろう。例えば「インパール作戦」。あんな無謀な作戦はありえないだろうと思うが反対を押し切って「できる」と主張した一人の意見が強行されることになる。だいたい「できない」という意見はいくじがないとされ、皆が首を横に振る中「できる、やるぞ。」という意見はいさましくかっこの良いものと思われがちなのである。強いものは弱いものに勝つ。この場合「できない」とする主張は弱く、「できる」とする主張は強いのである。「やる」のが言っている本人だけであれば「がんばって」と言うしかないだろうが何万もの部隊に下される命令なのだからそんな訳にはいかない。これに近いことを今の社会で身近に感じる。どう考えても無理なスケジュールを立てられ下の人間があえぐ。息つく暇もなく次の仕事が押し寄せてくる。そんな状態で先も見えずに働かせられることがいかに厳しいことか。いや、先を知らせれていても高く困難な山を越えなければ到達できないはるかかなただったりするのである。指揮官の功名心のために多くの部下が犠牲となる。そういう構図はまったく変わらずに存在する。こうした個人の力を発揮する表現力の弱さは日本の文化の質と無関係ではないと思う。表現力、つまりアートの力はそういった意味でも重要だと思っている。「アートを身近に感じて欲しい」どころではない。アートは日常生活の中で欠かせない重要な一部である。

 大切なのは個人の力。思考力、判断力、行動力。今しっかり見つめ考えなければいけないと思うのは日本国憲法。この平和憲法は存続の危機にさらされている。どんどんなしくずし的なことがされてきたがまだこの憲法はなくなったわけではない。日本は主権を有する一国家としてこの憲法を基にしっかり独り立ちしなくてはいけない。そうでしょう?

(このテキストは作品に書き込んだコーヒーの文字を写したものです)
2006.2

inserted by FC2 system